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仙台地方裁判所 昭和58年(行ウ)8号 判決

原告

三浦ちよ〓(X1)

三浦みさほ(X2)

右両名訴訟代理人弁護士

千田寛

右訴訟復代理人弁護士

氏冢和男

馬場亨

被告

宮城県知事 本間俊太郎(Y)

右指定代理人

佐藤孝明

佐瀬禮

菅原文人

阿部要

及川圭史

佐々木均

参加人

小野寺幸男

右訴訟代理人弁護士

小松亀一

理由

一  本件許可処分に対する原告両名からの審査請求に対し、農林水産大臣は、次の理由により、法二〇条二項三号該当を事由とする許可処分を是認し、審査請求を棄却する裁決をした(乙第八号証の一)。しかして、本件訴訟提起時における被告主張の本件許可処分事由も、この裁決の理由以上に出るところはない(〔証拠略〕)。

(1)  調査したところによれば、賃借人ら方は、世帯主三浦忠治四八才、妻みさほ四六才、三女千代美一七才、みさほの母ちよ〓六四才の四人家族で、忠治は大工、みさほは林繊維工業株式会社本吉工場の工員であつて、いま昭和五五年の所得の状況をみれば、家族全員で二四六万〇五一二円で、当該所得は総べて給与所得であることが認められる。

そして農業経営の状況をみれば、自作地畑九九一平方メートル本件小作地畑一五八六平方メートル計二五七七平方メートルの畑を、トラクター一台、耕耘機一台の農業機械で麦、大豆、野菜等を作付けしているが、それら作物の収穫物の多くは自家消費用で販売に仕向けるものは少なく、その農業労働力はちよ〓が中心で忠治は大工就業のかたわら、また、みさほは工場勤務のかたわら農繁期に農作業に従事しているに過ぎないことが認められる。

以上認定の事実に徴すれば、賃借人ら方は、生計の基礎も給与所得に置いていることが明らかであり、農業は主として自家消費用穀物及び蔬菜の収穫のためと判断するのが相当とすべく、だとすれば、本件小作地一五八六平方メートルの返還をしても、残る自作地畑九九一平方メートルをもつてして自家消費用の穀物及び蔬菜の確保にさして困難が伴うものとも思料されず、その相当の生計維持に大きな影響をもたらすものとは到底判断できない。

(2)  他方賃貸人は、本人世帯主小野寺幸男四〇才、妻ヒテ子四〇才、長女史真一八才、二女せい子一六才、長男賢一〇才、母はるみ六七才の六人家族で、賃貸人は昭和五五年一〇月三一日まで地元本吉町農業協同組合の営農指導職員として勤務していたが、故あつて同日付けで退職したところ、いま昭和五五年の所得の状況をみれば、農業所得一七万〇四〇五円給与所得一五二万七二〇〇円(農協営農指導職員としての給与)計一六九万七六〇五円となつていて、請求人らの所得二四六万〇五一二円を大幅に下回つていることが認められ、家族人員等を併せ考慮すれば賃貸人の生計は賃借人らに比しゆとりがないと判断するのが相当である、ちなみに、給与所得がなくなつた昭和五六年の所得をみれば、僅かに営業所得三二万六六五七円農業所得二二万七八四〇円計五五万四四九七円であることが認められる。

そして農業経営の状況をみれば、自作地田三六〇〇平方メートル畑四〇四〇平方メートル計七六四〇平方メートルを、本人と妻二人でトラクター、管理機、除草機、脱穀機、精米機など相当の農業機械を装備して経営に当つており、外に和牛二頭も飼育していることが認められる。しかして、本件小作地の返還を受けたあかつきには、本吉町農業協同組合の営農指導職員としての経験技術を生かし、水田及び畑作に畜産を取り入れた複合経営の具体的営農計画をもつて経営に当たるとしていて、その確実性も十分窺知できるところであり、本件小作地の返還後の効率利用ももとより期待できると思料される。

なお、賃貸人は、昭和五六年五月宮城県栗原郡若柳町に所在する株式会社若柳電子工業の下請企業として津谷電子工業を設立しトランスコイル巻事業の操業を開始したが、本件処分当時は従業員七人、トランスコイル巻機一〇台程度であつて、これが前記の昭和五六年営業所得三二万六六五七円であるが、元来当地方は太平洋に面した南三陸海岸地帯で平坦地が少なく、平均経営規模も七〇アールと宮城県全平均一二八アールのおよそ五五パーセント程度で、したがつて兼業農家が極めて多くその兼業農家率は九六パーセントにも達している状況であり、このため賃貸人も兼業としてトランスコイル巻事業を行つているものであつて、請求人ら主張の如くその生業が工場経営であつて農業ではなく、本件小作地の返還を受けても効率的利用が期待できないとする主張は採用できない。

以上によれば、賃貸人は明らかに兼業農家ではあるが、本件小作地の返還を受けてもその農業に関する経歴、技術、さらには農業経営に対する計画と熱意等に照らし効率的に利用して行くことが可能と判断するのが相当である。

しかして、右裁決書の説示(1)(2)の結論部分を除く、原告方及び参加人方の家族構成、職業、収入、農地保有及び営農状況、参加人が昭和五六年五月以降電子部品製造業を開始した事実、南三陸海岸地方の農家の平均耕作面積、兼業農業率については、〔証拠略〕によつてこれを認めることができる。ただし、右裁決によつて認定された参加人方の収入は、参加人の本吉町農業委員会宛所得(昭和五五年分)証明願に対する同委員会の証明書及び昭和五六年分の所得税確定申告書のみを根拠としており、参加人の資産及び津谷電子工業の経営状況に照らし、疑問のあるところである。

二  ところで、原告方で本件農地の耕作を始めたのは昭和一八年に遡る。その経緯をみるに、〔証拠略〕によると、次のとおり認められる。

1  原告ちよ〓(大正五年生)の夫三浦庄吉(明治三七年生、昭和二九年没)は、三浦庄左衛門(明治四〇年没)、きん(明治九年生)夫婦の三男である。その母きんは、庄左衛門死亡後の明治四二年小野寺市治(明治五年生、昭和一九年没)の後妻となり、長女ちよ子(他家に嫁す。)、二女はるみ(大正三年生)、長男冨雄(大正六年生、昭和一七年一一月二日戦死)の二女一男を儲けたが、自らは三浦の戸籍に入つたまま市治と夫婦生活をしていたので、子は皆きんの婚外子として庄吉の長兄庄治の戸籍に入り、昭和七年四月一日市治と婚姻届をしたことにより、同人との間の子は嫡出子として市治の戸籍に入つた。

2  きんは市治の後妻に行く時、庄吉が幼なかつたので、これを小野寺の家に連れて行つて育てた、庄吉は一三才頃まできんと暮し、その後は他に奉公に出されたのち兵隊に行き、除隊後の昭和一二年原告ちよ〓と婚姻した。したがつて、庄吉とはるみは異父兄妹である。参加人(昭和一五年生)は、はるみの婚外子であるが、市治、きんの長男冨雄が戦死した後の昭和一八年、市治、きん夫婦の養子となり、同一九年市治死亡によりその家督を相続した。

3  庄吉、原告ちよ〓夫婦は昭和一七、八年頃本吉町十三浜(当時の地名は本吉郡十三浜町)に居住し、庄吉は近くの鉱山で働いていたが、昭和一八年頃はるみが来て、弟の冨雄が戦死して百姓をする者がいなくなつた(なお、冨雄の嫁は子がなかつたので実家へ戻つた。)ので帰つてくれと頼まれ、庄吉の出生地に戻り、原告らが現在居住している所に家を造つて住み、本件農地を借受けて耕作するとともに、市治、きんら小野寺家の農事に従事した、戦後庄吉はほかに本吉の病院の小使をして生計を立てていた。かような事情があつたため、庄吉は市治及びきんから、前記の家を建てた敷地である畑(当時の表示は津谷町津谷字舘岡一四七番ノ二畑一反二四歩)を贈与された(ただし、所有権移転登記は昭和二八年一月二三日市治から参加人への相続登記を経由したうえ、同日庄吉に対してなされた。そして、同日庄吉が兄庄治から贈与された同所一四八番畑に合筆された。)。

4  また、庄吉、原告ちよ〓夫婦は、昭和二一年頃はるみから、津谷舘岡一四五番山林一五八六平方メートル(約一反六畝)を譲るから開墾してほしい、開墾したら本件農地を返してもらいたいと頼まれ、五年程かかつて雑木が生立している右山林中約一反位を開墾した昭和二六年春頃作付けしようとしたところ、はるみから、右開墾した土地は返してほしい、その代り本件農地は永久に耕作させるというので、右山林を返還した。はるみは右開墾地をその後他に貸し、昭和二九年頃にはここに杉を植林した。

5  この頃には庄吉及び参加人の当事者間においても、地元農業委員会においても本件農地の貸借を賃貸借として取扱つていたようである。

右3、4の認定に反し、被告及び参加人は争点二の1のとおり主張し、参加人本人尋問の結果及び報告書(乙一一、丙一〇号証)は、右主張に沿うばかりでなく、それ以上に庄吉の行為を非難する。しかし、参加人の年令を考えれば、その主張は伝聞乃至憶測によるもので、適確な根拠を欠く。前記1乃至3の事実からしても、原告ちよ〓本人尋問の結果の方が信用できる。

三  庄吉死亡後参加人方では原告両名から本件農地を返還させようとして、何回も行動を起した。〔証拠略〕によると、次のとおり認められる。

1  参加人が未成年時であつた昭和三二年一一月二九日、親権者はるみは本吉町農業委員会へ本件農地の賃貸借解約許可申請を提出したが、これが調査の昭和三四年五月一一日原告ちよ〓から委員会に、はるみが本件農地に大豆を勝手に蒔き付けたと提訴があり、委員会は同月二一日はるみに対し、その農地取上げにつき警告書を発し、はるみが委員会に対し陳謝したので治つた。

2  参加人は昭和五二年一〇月二五日右委員会に対し原告ちよ〓を相手方とする和解の仲介の申立てをしたので、委員会委員長の熊谷厚志ほか三、四名が原告方に出向くなどして、数回仲介が試みられたが、昭和五五年一一月二五日仲介は打切りとなつた。

3  参加人は昭和五六年一月二六日気仙沼簡易裁判所に対し、原告ちよ〓を被告とする本件農地明渡訴訟を提起したが、同年六月二九日原告両名が本件賃貸借契約に基づく賃借人たる地位を庄吉から相続承継したことを確認する旨、及び法二〇条による知事の許可がなされ、本件賃貸借解約申入れの効力が生じたときは、その解約申入れの効力が生じた日から一年を経過後直ちに本件農地を明渡す、但し原告両名は本件解約申入れにつき法二〇条所定の許可事由には該当しない旨主張する旨の訴訟の和解が成立した。

4  参加人は右和解前の昭和五六年五月二五日右委員会を経由し被告に対し法二〇条一項の規定による本件賃貸借契約の解約許可申請をなし、右和解成立の日の翌日である同年六月三〇日、右委員会総会において本件賃貸借契約許可につき検討がなされたうえ、被告は同年一一月二七日本件許可処分をした。原告らは昭和五七年一二月一日本件農地を取り上げられたため、以後耕作ができなくなつた。

四  〔証拠略〕によると、参加人は昭和五五年中自己所有の一三一平方メートルをその経営にかかる津谷電子工業の工場敷地にするため、農地から転用し、昭和五六、七年頃三浦直人に小作させていた田一一九〇平方メートル(昭和四年頃市治が買受けたものである。)を同人に売渡し、右津谷電子工業の経営もその後順調になり、昭和六二年に従業員二〇名を使用している、との事実が認められる。

五  叙上の事実関係に照らして判断するに、本件農地の賃貸借は一般にみられる地主と借地人間のそれと著しく性質を異にし、親族関係にある参加人方と原告方の先代以来の複雑な人間関係、生活財産関係の胖が賃貸借の形をとつて現在に至つているもので、原告方から見れば、本件農地の賃借権は昭和一八年以降戦争のため働き手のいなくなつた参加人方への農作業への協力、戦後五年間にわたる参加人所有の雑木山の開墾の代償として得た永小作権ともいうべきものである。そして、原告方の資産収入及び生計の手段を考えると、原告方において本件農地の耕作によつて得ているものは自家用の蔬菜、雑穀類であるとはいえ、これの耕作ができないために生計への圧迫があるのは免れないのみならず、賃借権以上の重要な財産の喪失をもたらすことになろう。したがつて、被告のように、原告方と参加人方の現金収入及び農業経営の状況を比較し、原告方の生計の基礎は賃金収入であつて農業は自家用穀物と蔬菜の収穫に過ぎないのに、参加人方の現金収入が原告方を大幅に下廻る(果して参加人方の収入が実際にそのように低額であるとすること自体、前述一のように疑問である。)が、営業経営能力が勝るから、参加人が本件農地を自ら耕作するのが相当である、ということはできない。のみならず、前記四に認定した事実をも参酌すれば、参加人の本件農地賃貸借解約申入れに法二〇条二項三号に該当事由があると判断することはできない。

被告の法二〇条二項一号、五号該当の主張は、その前堤事実たる争点二の1を認めるに足りる証拠がないから失当である。

六  以上の次第で、被告の本件許可処分にその主張にかかる処分要件事実を認めることができないから、該処分は違法であつてこれを取消すべきである。

よつて、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条、九三条一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 宮村素之 裁判官 水谷正俊 花谷克也)

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